猫並みに溶けたい

お熱なことをつらつらと綴るブログ

10年前の震災時、私は東北にいました。

前提

10年前の私は中学1年生でした。

実家は山形で、両親と祖父母と1人の妹との6人で暮らしていた頃に、東日本大震災は起こりました。

 

3月だったため、中旬にある卒業式にむけ、歌練習をしていました。不幸中の幸いだったのが、歌練習のために全校生徒が体育館に集まり、ほとんどの教師も体育館にいたということです。また、歌練習を終えたら帰宅できるように体育館のステージとは反対側、全員の真後ろにそれぞれ鞄を置いていました。

 

地震発生時

音楽教師がタクトを振りあげようとしたその瞬間にそれは起こりました。

誰かが「地震じゃない?」と呟いた後、縦揺れがだんだん激しくなり、停電しました

 

教師が呼びかける前に、これはやばいと感じた生徒達が頭を抱えてうずくまり始め、私もそれに習いました。歌練習のために楽譜だけ持っていたか、人によっては手ぶらだったのと、少し離れたところにある鞄を取りに行く暇が無いため、その場には身を守るものがほとんどありませんでした。体育館の揺れる照明などが落ちてきたらと思うと、素手で頭を庇ってもあまり効果はありませんが、とっさの行動でした。

 

かなり長い間揺れていたために、揺れが一時収まった時にまだ揺れている感覚に陥る人がちらほらいました。体育館の照明は幸い落ちてきませんでした。泣いている子もいました。あまりに長い時間でした。

 

担任を持つ教師達はその場を動かないように生徒達をなだめ、他の教師達は現状の確認と保護者への連絡の対応を行いました。15分か20分程度で「スクールバスを用意したので、帰宅しなさい」と支持されました。山形の公立中学校だったので人数が少ないのと、学区外から来ているという人がほぼいないためにできたのだと思います。

その時はまだ、停電が起こった地震だったということしか捉えておらず、まさか周辺の県で大変なことになっていることは知りませんでした

 

帰宅後

私は家に帰りました。小学校低学年の妹は既に家にいて、ストーブの前でうずくまっていました。

3月中旬の山形は寒いです。4月冒頭まで雪が降るようなところなので、電気がないと致命的でした。しかし、幸いなことに数日前に叔母がストーブを預かってて欲しい、自由に使って大丈夫と、家に反射式ストーブを置いていっていました。当然停電中のため、電気ストーブは使えず、コンセント無しで使える反射式ストーブは、まさに恵みでした。

 

テーブルには火のついたロウソクが置いてあり、祖父はロウソクの火で書類が燃えないようにテーブルを整頓し、祖母は夕食の準備をしていました。当時の家はガスコンロであり、私の家は停電はしているものの水道とガスは止まっておらず、料理をしたり風呂にはいったりはできました。

 

ストーブの前でうずくまっている妹をじっと見ていると、祖母は言いました。 

 

「下校中に、もうちょっとで家さ着くところで地震があての、泣きながら帰ってきたんよ」

 

妹は小学校低学年でした。地震が起こった時間帯は既に下校中であり、外で地震が起こったのです。後ほど分かったのは、家に近い(それでも小学校低学年の足では少しかかる)ところだったため、一緒に下校中だった他の友達は皆別方向に行った後だったということです。つまり、外で1人で歩いてる時に地震が突然起こった。こんな恐怖はありません。

私は体育館に居て、歩いているわけでもなくその場に留まり、友人たちと慰め合いながらスクールバスで家に送り届けられたのです。妹の方が大変怖い思いをしたに違いありません。ストーブの前でうずくまっているのも無理ありません。

 

流石に焦げそうだったので、妹をストーブから引き剥がし、私は妹に家中の明かりのつく電子機器を集めてくるよう言いました。私は自分の部屋から、中学校で以前作った、太陽光や手回しで発電できるラジオを引っ張り出してきました。妹は家中の携帯ゲーム機を持ってきました。こんな時に役立つとはと思いながら私はラジオのハンドルを回しました。

 

ハンドルを回している際に両親が帰宅しました。共働きですが、地震が起こった時の停電により仕事にならなくなったため帰宅命令が下ったそうです。

私たち姉妹を見て安堵した両親はラジオのハンドルを私の代わりに回し、アンテナを上げました。私はダイヤルを調整しました。

 

流れてきたラジオは想像を絶することを次々に発表していきました。

震源、震度、マグニチュード、そして津波。東北から関東にかけての太平洋側の惨状。

固唾を飲みました。

その時に私はたまたま運が良かったのだと把握しました。

 

夜になっても停電は直らず、1本のロウソクだけでは明るくないため、妹の集めてきたゲーム機などで明かりを確保しました。明日以降も停電の可能性があるため、ロウソクは節約してなるべく使わないようにしました。

 

祖母はお湯を沸かし、少し置いたお湯を2リットルペットボトルに入れ(危険なので真似しないでください)、タオルで包み、両親には2人で4本、私には2本、妹にも2本渡しました。リビングの反射式ストーブは機能しますが、各部屋の電気ストーブは使えないので、カイロ代わりです。私はそれを自分の布団の足元に置いておきました。

 

そうして2日が過ぎた後の昼1時ぐらいに停電は直りました。私は休みだったのでリビングにいると、突然明かりがついたため、急いでテレビをつけました。そこにはラジオで見た時よりももっと凄まじい光景が断続的に流れていました。それがしばらくの間続きました。

 

震災後

1ヶ月後中学2年になり、部活に新入生が入ってきました。その中の一人が福島から来た子で、当時の福島の風評被害が凄く、上級生は大変だったね、と声をかけるだけでしたが、同じ1年生はその子を見る目が冷たいように見えました。

2週間後に、その子の祖父母が青森にいるので、そちらに転校していきました。2週間は、何らかの事情でこちらに滞在していたのだろうと思います。

 

程なくして、見覚えのある顔が転校してきました。私が小学校低学年の時に仲良くしていた女の子でした。彼女は小学校の時に宮城に転校しましたが、祖父母宅に帰ってきたとのことです。彼女はクラスメイトにかつての友人たちもいたため、すぐに馴染んでいました。

彼女曰く、宮城にあった家は津波で流されたと言います。冷蔵庫浮いた、足元が見えなかった、とも話していました。

 

福島から青森に行った子も宮城から帰ってきた旧友も、想像を絶する体験をしたのでしょう。

いくら停電したとはいえ、彼女らとは隣の県の人間である私はこんなにも恵まれていました

食べ物を食べることが出来、水を飲むことが出来、お風呂にも入れる上に、家があり、家族が一人欠ける事もなくいる。当たり前のことが当たり前にできていたことの幸せをかみ締めました。

 

まとめ

東日本大震災阪神・淡路大震災の記憶を忘れるなとは言えません。人の記憶というものはいずれ風化してしまいます。しかし、記憶を綴ったものや、惨状を捉えた映像は後世に残していくべきです。

そして、例えそれらすら風化していったとしても、地震への備えというものは阪神・淡路大震災東日本大震災を学んで、整えておくだけで助かる命もあります。戦争に並び、心に留めておくべきことだと思います。

 

この10年間で生まれた命が、悲惨な思いをすることがないように願っています。